父に捧ぐ

あまりにプライベートな事ですが、6月16日、私の父が亡くなりました。68歳。恐らくまだ若い方なのだろうなぁと思います。私の父は、私に最初に釣りの魅力を教えてくれた人でした。

釣りの魅力に虜になった、一番最初のことは今でもとても良く覚えています。当時私はまだ小学生で、ある日の陽も落ちた夕方、ヤマベ(ヤマメ)釣りから帰ってきた父親が、台所のシンクに、ビクから笹の葉のついた沢山のイワナやヤマベ(ヤマメ)を開けたのを見たとき、体にビビっと電流が来ました(ホント)。これが私の釣りをしたい!と思った初めての瞬間です。自分一人では当然行けませんでしたから、それをきっかけに、父親や、父の友人達と一緒に、道北の渓流を幾度となく同行させてもらいました。今考えてみると、小さいくせに、おじさん達とのつきあいはやけに多かった方で、自分の人格形成に何かしら影響を与えているかも知れません。

しかし当時小学生だった私は、やはり大人達から見れば当然「お荷物」な訳で、しばしば置いて行かれることもあったのですが、その時は車に乗ってでかける父親に、玄関先でいつまでも泣いてわめいて連れて行けと叫んだ事を覚えています。その後は大きくなるにつれ、自分で自転車をこぎ、今考えると信じられない距離を釣りに行ったりするようになりました。

大学に入り、自然と釣りを全くしない生活になりました。親とも滅多に会わない生活になり、卒業後、地元に戻り、そこでまた釣りを始めた訳ですが、つまり学生時代の4年間をのぞいて、大体ほとんど釣りには行っていた事になります。

数年後、私は仕事の都合で地元を離れることになり、札幌に引っ越す事になりました。当時私は30歳で、とにかく仕事が忙しく、休みも金もなく、ある意味生きていく事で精一杯だったため、釣りをする余裕は全くありませんでした。当然父親とも一緒に釣りには行けません。「愛と涙と感動の知床カラフトマス」は、かなり無理をして行った、数少ない父親との釣行の一つです。そしてこれが結果的に、最近の10年間で、父親と濃密に釣りをした最初であり、最後となりました。

父親は7月1日の解禁日になると、必ず友人と、あるいは一人で、泊まり込みで道北の渓流にヤマベ(ヤマメ)釣りに出かけていました。父親は、道北の無数にある渓流や林道を本当に良く知っていて、「風の強い日は山間のこの川が良い」「雨の日なら増水しててもこの川なら入れる」「雨後はこの水系は泥炭質だから濁ってダメだからしばらく行くな」「ヤマベ(ヤマメ)はサクラマスについて一緒に登るから、この時期ここでいなければ、マスにくっついてあっちの方ににいるはずだ」「この農家の横の小さな流れのあそこのたまりに、必ずでかいのが入っている。だからボウズになりそうな時はここを押さえておけ」「この時期のあの川は遡上したカラフトマスで釣りにならないから、行くなら横のこの支流に入れ」「この時期のあの川は新子しかいないから行っても無駄だ」というように、まさに自分の庭のように何百キロも離れた数々の川を熟知していました。

そんな調子なので、友人達との釣り会で開かれる大会では、必ずといっていいほど、1位を取ってしまいます。そのため、途中からはわざと遠慮をして、大きなヤマベ(ヤマメ)やイワナを釣っても、車にこっそり隠して検量に出さず「いや~、だめだったわ」と言ったり、なかなか入賞出来ない友人にこっそり上げたりする、気配りの人でした。

実際、私と一緒に釣りに行っても、腕の差は歴然としており、例え先行者がいても、私が先に入っても、何の問題もなく「え?あそこから?」というようなポイントから、良型をポンポン引き出してしまう、抜群のテクニックと洞察力をもっていました。0.3号のラインで50オーバーのアメマスを釣ったり、どうしてそのラインとロッドで、こんなのが上がるの?という事も数え切れないくらいありました。私も自分で言うのも何ですが、それなりに旨い方だと思っているのですが、これはとても、恐らく一生、勝ち目はないな、、、と何度と無く思ったものです。それは恐らくある種の「才能」だったように思います。

そして札幌に来てから、いつも7月1日の解禁日が近づくと、今年こそは父親と一緒に、泊まりがけで道北の渓流を攻めたいな、、、と思いつつ、4年、5年、6年と月日が流れました。そのうち、少し釣りに行けるようにはなりましたが、今度は私がソルトにはまってしまい、なかなか渓流に足が向かなくなってしまいました。

結局昨年の解禁日もまた、一緒にヤマベ(ヤマメ)釣りには行けませんでした。秋の知床カラフトマス釣りも、本当は父親をまた連れていきたいと思っていたのですが、どうしても仕事の都合で予定が立たず、結局友人と二人だけで日帰り強行で行きました。以前一緒に連れて行ったときに、とても楽しそうにしていたので、まあ父親は来年連れてってあげよう、と思っていました。

知床から帰ってきて、ちょっと経ってから実家から電話があり、父親がどうもガンで、しかもかなり良くないらしい、という事を知りました。札幌にきて10年が経ち、今年こそは解禁日は泊まりがけで一緒に道北の渓流を・・・と思っていた事は、とうとう実現する事が出来ませんでした。そのことがとても悔やまれます。やはり思ったときにすぐ実行しないと、結局物事というのは、実現はしないものなのですね。

長いようで短い闘病生活の後、父は亡くなりました。ガンとわかってから、一年も経っていませんでした。亡くなる前日、幸運な事に話をする事が出来ました。父は一言、「世話になったな・・・」と小さく言いました。ヘンなことを言うな、また来週子供達を連れて一緒に来るから、と言いましたが、恐らく覚悟が出来ていたのだろうと思います。父は翌日息を引き取りました。私は最後に立ち会うことが出来ませんでした。元気なうちに、ヒラメかサクラマスを釣って、見せて上げたかったのが出来なかった(今年はどういう訳か全くダメ)のが残念です。

出棺の日、予め数日前に釣ったイワナを2本と、ヤマベ(ヤマメ)釣りの仕掛けと一緒に棺に入れてあげました。イワナを釣った川は、その昔父から「ここは誰も知らない場所だぞ」と教えて貰った小さな渓流です。無意味な公共事業がどんどん行われる中で、その場所は数十年前と変わらず、工事が入る事も無く、誰にも荒らされることもなく、そのままの姿で、そのままの魚影の濃さでした。本当はロッドも入れてあげたかったのですが、カーボンはダメとの事で、まあ、すまんけど竿はあちらで調達してくれと語りかけました。

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同じく釣り好きで、一緒に良く行っていた親戚は数年前に先に逝ったのですが、今頃二人で楽しくあっちで釣りをしているだろうと思います。親戚が亡くなった際、父と友人達が解禁日に、骨をほんの少しだけと、良く使っていた手袋を、よく行った渓に流したと聞きました。それが彼らの流儀なのだと思います。

仕事も相変わらず忙しく、正直なところ、まだ亡くなったことをじっくり直視したり、かみしめる事は出来ません。葬儀中にも少し仕事がささりました。しかし、むしろその方が良いのかも知れません。いい加減、まともに釣りに行っていないので、そろそろ行きたいところなのですが。そうやって毎日を忙しく過ごしていく中で、いずれ時が全てを癒してくれるであろうと思っています。

J.D.Salinger-「エズミに捧ぐ―愛と汚辱のうちに」

 “エズミ、ほんとうの眠気をおぼえる人間はだね、いいか、
 もとのような、あらゆる機―あらゆるキ―ノ―ウがだ、
 無傷のままの人間に戻る可能性をかならず持っているか
らね。”

さようなら、そして心の底からありがとう。私はあなたの息子で本当に幸せです。

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